2024年3月26日火曜日

高齢者は学ばない方が長生きできるのか?

日本人特に高齢者が学ばないのが不思議なのだが、もしかして学ばないと生物にとって良いことがあるのではないか。例えば長生きできるとか。そのようなことがあるとはにわかには信じがたいがいつか実験して確かめてみたい。そこで実験について素案を考えてみた。

昆虫は生まれてすぐに知能が固定してしまい、新たに学ぶことが起こりにくいので実験しにくい。生後に学ぶことができる鳥類や哺乳類でないとこの実験はできない。実験対象は人間でもよいが、人間は寿命の個体差が大きく有意な結果を得ることが難しい。寿命の個体差については鳥類や哺乳類でも難しさはある。

自然環境で実験したら、学ぶ個体が長生きするのは自明なので実験にならない。厳しい自然環境では学ばないバカはさっさと死ぬからだ。だから実験は条件を整えた簡単には死なない環境で行う必要がある。ここまで書いて、この実験を行う意味がないことが分かった。人間社会は自然環境とは違うが、別の意味で厳しい環境だ。厳しい環境に対応して学んで自分を変えて行かなければ生きていけない。人間社会でもバカは生存に不利だ。学ばない方が生存に有利などあり得ない。これは実験しなくてもわかる。学びの定義が「自分や自分の種に有利になるように自分の行動を変える」であるから、不利になることはそもそも学びとは言わない。学ばない方が長生きできるなんて学びの定義に反する。

学ばない高齢者を量産している日本はバカでも早死にしないで済む特殊な環境構築を目指しているということだろうか。それは成功しているように見えるが、若い人や子供を犠牲にしているので種の存続というもっと重要な観点では失敗している。知性がないまま、ただ長生きするのは人間として幸福に生きていると言えるのかも疑問だ。日本のやり方に意味や正義があるとは思えない。

日本人が学ばないことを選ぶのは種としては滅びたいという愚かな選好だ。その割に愚か者ほど生に執着しているのが見苦しい。ここまでバカで見苦しい生き物だと、日米安保に則って日本を助けなくても米兵に心苦しさが生じなくてよい。私が米兵なら「自分で戦わないクズを何で俺が代わりに命を賭けて守ってやらなきゃならないんだ」と文句を言う。自分が死なないよう戦闘には手を抜きたいが、手を抜いても今の日本人なら助ける価値などないから心が痛まなくてよい。

2024年3月25日月曜日

なぜ高齢者は学ぶことを放棄して平気なのか(平気なのは日本人だけかも)

90歳の母親が「テレビがつかない」と電話で聞いてきた。リモコンの電池切れか、テレビの主電源スイッチが切れているか、電源ケーブルが抜けているか、電源ケーブルの途中にあるスイッチ付きテーブルタップのスイッチがオフ側になっているかのどれかが原因だ。後にテーブルタップのスイッチがオフになっていたことが原因だったと判明した。

母親は「電源ケーブル」「テーブルタップ」「ACアウトレット」の言葉の意味を知らない。言葉の意味を知らないこと自体は悪いこととは思わない。わからない言葉があるのは誰にとっても普通のことだ。母親がこの言葉がわからないと事前に知っていたので、「テレビから出ている線」「線の途中にある箱」「壁にある差し込む穴」の言葉で説明した。テレビから出ている線は電源ケーブルとアンテナケーブルの2種類があるので、それは平たい線と丸い線で区別した。

リモコンの電池は最近交換したばかりなのは知っていたし、アンテナケーブルは事故でない限り抜けるはずはないので、電源ケーブルをつなげたテーブルタップのスイッチが原因だろうとは察しはついていた。そこで「テレビから出ている平たい線を辿っていって壁までいってみて」「線の途中の箱にスイッチがあったら押してみて」と説明した。しかし、線を辿るのは難しいから嫌だと言う。母親のテレビはテーブルの上に置いてあって、電源ケーブルは家具に隠されることなく床をつたって壁のACアウトレットにつながっている。見ればわかるはずだ。しかし母親は自分にはわからないと思い込んでいる。簡単だからと数分私が説得したが、母親は動かなかった。掃除機をかけるときはケーブルがはっている床の辺りを動き回ることができるのに、なぜそこへ見にいかないのか?私はしかたなく諦めた。

電気屋さんを呼んでテーブルタップのスイッチをオンにしてもらったと後で聞いた。

なぜわかりもしないのにスイッチ付きのテーブルタップを使っているのかがそもそもの問題なのだが、これは死んだ父親の愚かな考え方のせいだ。テレビの主電源をテーブルタップスイッチで毎回切っても節約できる電気代は年間で数十円程度なのに、わざわざ1000円以上高いスイッチ付きのテーブルタップを買ってとりつけたのだ。これでは10年たっても元がとれない上に、テレビをつけるときに毎回不便だ。父親が死んだときにこれをスイッチなしのテーブルタップに変えておけばよかったのだが、そのために新たにテーブルタップを買うのももったいないのでそのままにしておいたのがまずかった。テレビの電源ケーブルを直接壁のACアウトレットに刺したかったが、これは長さが足りずにできなかった。

そして根本的な問題は、母親の「自分にはわからないはずだ」「分からないのがあたりまえだ」という考え方だ。私の説明なら幼稚園児でもわかったはずだ。幼稚園児なら普通に線を辿っていける。そのあとで「なぜ線があるの?」「なぜ線は壁にささっているの?」「壁から何が出るの?」とか私にも予想がつかない質問をいろいろくりだしてきただろうと思う。私はそういう質問に工夫しながら答えるのは好きなので喜んで答える。質問には何時間でも付き合う。赤ん坊や幼稚園児にある「なぜ?」「知りたい」という人間の根源的な探究心がなぜ母親から失われているのだろうか。しかもその異常な状態を自ら肯定しているのはなぜえだろうか。これが40歳以下の若者ならゆとり教育が原因だろうと思うが、母親は90歳なのでゆとり教育は受けていない。私が「日本人はバカだからそのうち国は滅びる」と言っている根本理由がここにある。

世界を旅すると日本人くらいバカな人間は珍しいことがわかる。教育制度が十分でない国でも日本人ほどのバカはなかなかいない。理由はわかる。たいていの国はバカだと生きていけないからだ。生きるためには考えて行動して常にジタバタしないといけない。その考えが稚拙であっても何も考えない日本人よりはよほどマシだ。稚拙であっても考え続ければやがて日本人よりは賢くなる。生きるのに厳しい社会ほど考えることを必要とする。考え続ければ賢くなる。

特殊詐欺は日本以外ではあまり話題にならない。日本以外で特殊詐欺を行っても割に合わないからだ。普通の国では特殊詐欺に騙されるような人間は大金を持っていない。騙される人間が不相応の大金を持っているのは高齢者だけ党員扱い共産主義の日本ならではの現象だ。この辺りは南ヨーロッパもかなり日本に似ているが、日本ほどひどくはない。

若い人が全員脱北すれば面白いのに。彼らが共産党へ党費(年金)を納めなくなると私の年金がもらえなくなるがべつにかまわない。お祝い金として献上しよう。

2024年3月24日日曜日

広告なしブラウザArcがよい

以前は自分のブログにgoogle adsenseの広告を入れていたので、人のことはとやかく言えないが広告入りコンテンツは見にくい。それに気づいたので自分のブログに広告を入れるのをやめた。個人ブログだけではなく、情報配信企業のページも広告が入っていて見にくい。情報配信企業というのはPC watchを配信しているimpress社のような企業だ。情報配信が有料でない場合は、広告収入がないと彼らの経営が立ち行かないので広告を入れるのは仕方のないことだ。しかし見にくいことは事実だ。そこで広告なしブラウザが活躍する。

普通のブラウザであるgoogle chromeやfirefoxでも広告を取るアドインを入れれば広告は消えると思うが、アドインを入れるカスタマイズが私はあまり好きではない。単に好き嫌いの問題であり深い意味はない。私は最初から広告がでないブラウザが好みだ。そこでBraveとArcを愛用している。どちらもデフォルトで広告が遮断される。google chromeやfirefoxのような普通の使い勝手を望むなら普通の使い方ができるBraveが適している。使い方は特殊だが見た目がシンプルなものを望むならArcが適している。私は最近はやっと特殊な使い方に慣れてArcがメインブラウザになった。

広告が出ないとストレスが減る。PC watchを読んでもストレスなくすいすい読める。個人ブログも広告が消えて読みやすい。BraveやArcのような広告なしブラウザがもっと流行るとよいと思う。広告で収入を得ているgoogleは広告を抜くことには消極的だからgoogle chromeは広告なしにはならないだろう。firefoxは広告を抜く機能を入れたら最近の低迷から脱することができるかもしれない。operaやvivaldiなど低迷している他のプラウザも同様だ。

2024年3月23日土曜日

バカは「しまった失敗した、ああしとけばよかった」と考えない

失敗学の基本書である失敗の本質(アマゾンへのアフィリエイトリンク)は分厚い本だが、読むと日本軍が負けた理由は要するにバカだったからというのがわかる。そしてこれは第二次大戦中だけのことではなく、ずいぶん昔からでそして今も変わっていないこともわかる。日本人がバカになった時期は弥生時代か、江戸時代からではないかという仮説を私は持っている。世界でいちばん賢かった中国人がバカになった時期は秦の始皇帝が中華を統一したときからというのは賛同する人が多いだろう。それと同じメカニズムが働いたとするなら、日本人がバカになった起点は弥生時代か江戸時代だろうと私が予想するのは自然なことだ。

バカの所業で不思議なのは失敗を認めないことだ。失敗したら自分に不利益な結果になる。それは辛いから「しまった、あのときああしとけばよかった。つぎはそうしよう。」と自然に思う。そして一段階成長できる。逆に成功すると学びはほとんどない。失敗こそ最大効率の学びを得られるチャンスだ。せっかく失敗できたのにそれを失敗と認めなければ学びの機会を失う。なんともったいないことだろうか。しかし弥生時代だか江戸時代だかからの日本人は、そのもったいないことを進んでやっていた。そりゃみんなバカになるわけだ。本当に不思議だ。なぜ失敗を認めないのだろう。

私が日本という国が絶対に滅びると断言できるのは、この性質が滅びるまで直らないとわかるからだ。これは論理学で簡単に証明できる。「失敗を認めない性質のために失敗している」状態を直したいのだとする。失敗を認めないから自分がこの状態であると認識できない。その結果直す機会は永遠に得られない。証明終わり。ここまで完璧に詰んでいる例はなかなかない。

昭和12年に流行った「バカは死ななきゃなおらない〜」という言葉は論理学的には重要な定理と言えるだろう。バカは自分がバカであることがわからないから永遠になおらないと言っているのだ。

実は人間の行動に素の論理学を適用するのは適切ではない。わかりやすいので前記の証明は素の論理学的に行ったが、精密に議論するには確率分布を導入しないといけない。「うそつき」と呼ばれる人でも100%うそをつくわけではないからだ。うそをつくこともあるし、本当のことを言うこともある。それは時と場所と本人の状態によって変わる。うそつきがうそをつくかどうかの具合を確率分布で表現しないと正確な分析はできない。確率分布を導入した論理学を用いると複雑なことが表現できて面白い。得られた結果の中で注目すべきは、非常に稀ではあるが素の論理学ではありえないことが起こると導き出せることだ。この稀なことにより予想もしなかった破滅状態に陥ることもあるし、棚ぼたが起きたかのように事態が好転することもある。この辺りの分析はとても面白い。後者の棚ぼたが起きるのはすごく低い確率だが、日本人が失敗を認めない性質を修正する可能性が残されているということだ。その確率は宝くじの特等に当たるよりも小さいがゼロではない。

複雑系とか過渡状態の研究を確率分布を利用して行うのは数学的に面倒なので難しいのだが、その難しいところにこそ社会の真実が隠されている。大学の数学科や物理学科レベルの生半可な数学知識で、社会学や経済学や心理学などの複雑系に取り組まない方がよい。不適切な前提を使った重要情報落としまくりの数学理論を使うくらいなら、まったく数字を使わずに議論した方が複雑系ではまだマシな結論になることが多い。

2024年3月22日金曜日

食塩の摂り過ぎが健康に悪いかどうかはまだわからない

ナトリウム(要するに食塩)を摂り過ぎても健康に悪影響を及ぼすとは限らないという研究論文がいくつか出てきている。食塩の摂り過ぎが健康に悪いという過去の研究結果は実験方法と評価方法が信頼できないものがかなりある。それらの実験ではナトリウムの摂取量だけを変えて他の条件は同一にして比べているのだが、他の条件を同一にするのがとても難しい。他の条件を同一にできなければ、ナトリウムの量が実験結果に影響したのか、他の条件の差が実験結果に影響したのか判定できない。また、被験者をたくさん集めるのも難しい。被験者が10人では、実験結果は個人差である可能性が高く信頼できない。かと言って被験者を何万人も集めると、先ほど述べた他の条件を同一にするという処置が非常に難しくなり、そのことが原因で実験結果を信頼できなくなる。

この辺りの大変な事情を俯瞰的に述べた論文もあってなかなか興味深い。医学者と心理学者と社会学者には気の毒な話なのだが、人間を対象にした実験は本当に難しい。医学論文や心理学論文や社会学論文では、実験方法や評価方法を厳しい目でみると査読に通った論文のうち信用できる結論を出しているのは百にひとつと言っても言い過ぎではない。

医学特に西洋医学の研究にもうひとつ大きな壁として立ち塞がるのが個人差だ。人間の個人差は大きい。身長150cmの人もいるし200cmの人もいる。その間をとって175cmの人がいちばん普通でよいということはできない。同じことは血圧にも体重にも言える。たくさんの健康な人の血圧の平均値を計算したとしてもその平均値に近い状態が誰にとってもより健康であるとは言えない。高い方の血圧が180mmHgがいちばん調子がよく、それより低くなると不健康になる人だっている。そんな人に血圧を下げる処置を施したら健康を損ねて早死にしてしまうかもしれない。

個人差の存在は事実なのだが、個人差を言い出すと西洋医学の医療行為はかなり難しくなるので、わかっている人も黙っている。個人差がある状態でも西洋医学がそこそこ役に立つのは病原菌に対する対処の分野や外科手術の分野だ。

病原菌や悪いウイルス(世の中に存在するほとんどのウイルスは無害だ)は人体内に少なければ少ない方が良いということは言ってもよい。これにも実は個人差があって、普通だったら死ぬだろという量のウイルスが人体内にあってもピンピンしている人もいるが、悪いウイルスの量が多いほど健康という人はいないので悪いウイルスは少ない方が誰にとってもうれしいと言ってもよい。うーん正確にはやっぱりそうも言い切れない。例えば腸内細菌は悪玉も善玉もいるが、全部いなくなると人体は困る。病原菌だけ減らして、身体の中にいて欲しい細菌は残すような処置は難しい。病原菌を殺す薬を大量に投与したら身体に必要な細菌まで殺してしまって却って不健康になったなんてことはよく起こる。悪い病原菌やウイルスも完全にいなくなると免疫が作られないので困る。彼らがどれくらいいるのを許すのがちょうどよいかは個人差で変わる。常に個人差は無視できず、西洋医学にとって個人差は学問の存続に関わるクリティカルな因子だ。

なので西洋医学はメスを使った外科手術以外は未完成な学問である。西洋医学が個人差を克服できるのは今後さらに数十年か数百年は必要だろう。ここでは詳しく述べないが中国を起源とする東洋医学は個人差を考慮しているので西洋医学よりは個人差に対応できる。東洋医学には西洋医学に及ばない点もあり、東洋医学も未完成な学問であることには変わりない。

個人差を克服して健康を維持するためには、自己観察力を高めるしかない。これをやったら自分は調子がよいとか悪いとかをよく観察して自分にとってよいことを生涯を通して学ぶ。獣は意識せずにそれができている。ペットが何かをしきりに欲しがるときはそれを食べると体調が回復するときだ。私も気絶しそうになったときに朦朧とした状態であんぱんを理由もなく求めてむさぼり食ったことがあるが、獣と同じ理由だろう。そのときは朦朧としていて何が起こっているかわからなかったが、後で考えると低血糖状態だったのだ。とつぜんバナナを無性に食べたくなることもあるがそれはバナナに含まれるミネラルのどれかが必要なときだろうし、柑橘類を無性に食べたくなるときは柑橘類に含まれるビタミンのどれかが必要だという身体からのサインだろう。先入観を持たずに自分に正直に向き合えば、自分に関してだけは個人差を克服できる知恵が生まれる。

食塩の摂り過ぎが健康に悪いかどうかの答も個人差を考慮すればわかる。「人それぞれです」で終わりだ。食塩を摂り過ぎても平気な体質の人が減塩にこだわって、食事の塩を減らして不味くしてそのために必要な栄養を摂れないのだとしたら、減塩は健康に悪いと言える。食塩を摂り過ぎると健康に悪い体質の人もいる。その場合は血管系の心配より腎臓の心配をした方が良い人が多いと思うが、なぜかみんな血管系の心配をしている。どこが悪くなるかも人それぞれだ。

2024年3月21日木曜日

勝手にお金が増える謎がはんぶん解けた

以前から勝手にお金が増えたり減ったりすると何度も本ブログに書いたが、メカニズムの一部がわかった。

オプションで短期のターゲットバイイングをよく仕掛ける。カバードコールの現物株を作るためだ。仕掛けた時にいくばくかのお金が供託される。プットオプションがインザマネーになったときに現物株を買うお金を担保するためだ。この供託されたお金はオプションの満期までは使うことはできないが、あずかり金として資産合計には計上される。ところがSBI証券の個別株オプションだけは、供託されたお金は資産合計には計上されない。オプションを仕掛けたときに一時的に消える。このお金が再び現れるのはオプションの満期が来たときだ。SBI証券を使っているとオプションを仕掛けるといくばくかのお金が消える。消えると資産合計が減るし、オプションが満期になって消えたお金が戻ってくると資産合計が増える。しかし入出金明細には何も記録されない。これが勝手にお金が増えたり減ったりするメカニズムだったのだ。

お金が勝手に増えたり減ったりする理由はSBI証券の個別株オプションサービスのせいだけではない。SBI証券の個別株オプションサービスは去年始まったものなので、もっと以前の増減の原因は他にあるはずだ。その解明は気にはかけてはいるものの、まだ真実はわからない。

とりあえず、お金が減ったり増えたりしたら家族間では「あやかしが影うちにしまった」「金次が堂島へ行くのに借りていった」「金次が堂島から帰ってきた」で済ませている。

あやかしが一時的に借りたお金はいつも少し増えて返ってくるので、長期的にはお金は少しずつ増え続けている。これも謎である。なぜ減らないのだろう?

2024年3月20日水曜日

日銀金融政策決定会合へのコメントが面白い

日銀はマイナス金利解除を決めた。植田総裁の話した内容は理路整然としていてごまかしがなかった。日本はいつかはマイナス金利を解除して諸外国の中央銀行のような「普通の金融政策」に戻らねばならなかった。植田総裁は「普通になる」と言ってそれを決意した。異常な状況からの脱出の一歩を踏み出した。今回の金融政策決定会合には100点満点をあげたい。

マーケットの反応は概ね好意的だった。経済がわかっている人たちの反応も好意的だった。ところが、この日銀の決定に文句を言っている人もいる。頭の悪い国民が内容を理解せずに文句を言うのはいつものことなので驚かない。大学教授で文句を言っている人もいて興味深い。大学のレベルにもいろいろあるし、個人差も大きいので頭の悪い大学教授がいるのは珍しいことではない。だから経済がわからずに文句を言う大学教授がいてもやはり驚かない。

ここで面白い問題とは、文句を言う連中の割合が国民の何割くらいかを見積もることだ。これが1%以下で無視できる人数なら特に面白くない。3割4割だとビジネス戦略に影響する。5割を超えると、将来国が滅びる(民主主義国でバカが5割を超えるとそうなる)ということなので、そのときは自分の身の振り方を考えないといけない。

ビジネス戦略に影響するという3割4割の状態がなかなかに面白い。このような頭の悪い連中は何を欲しがるかを予想して商品開発やサービス開発をすることになる。この予想とその結果が当たったかどうかの検証は競馬の投票と一緒だ。当たれば大儲け、外れれば損だ。仕事とは言えギャンブルは面白い。電気やガスを供給するような仕事ではなく、新製品を開発したり会社を新しく作ったりする仕事はギャンブルだ。

頭の悪い連中が少ないつまり正常な状態だと、良いものすなわち性能の高いものや使いやすいものや美しいものを作れば売れるので努力は必要だが当たり前なので面白い状態ではない。頭の悪い連中向けの性能の低い合理的ではないものをあえて作る必要があり、どれくらい性能を落とすかの塩梅を考えないといけないとそれは面白い状態だ。その状態では論理では説明できない当たり外れが生じるので、見えない山から麻雀牌を引いてくる運否天賦のドキドキわくわくを味わえる。

自動車メーカーのエンジニアがいちばん私の言っていることがわかると思う。なんであんなクズ車が売れるんだといつも悩んでいるからだ。良い車がたくさん売れるとは限らない。車を買う連中のほとんどがバカだということをしっかり理解すれば、彼らエンジニアの悩みは少し減ると思う。

不動産屋さんは正直不動産が望まれるが、車やファッションでは正直によいものを勧めると成功できない。バカはよいものがわからないからだ。