2023年1月9日月曜日

生きる価値のない人間ほど生に執着する

人間の生きる意味は、第一には他の生物と同じように種をつないでいくことだ。人間は知性を持つので、それに加えて「よく生きること」「他者のために生きること」などを生きる意味とするのは自然ななりゆきだ。ところが、どういう訳か「他を犠牲にしてでも長く生きること」を最重要とする人がいる。そんな人は考えに考え抜いてその結論に達したのではなく、単に人間の生きる意味を深く考えなかったからそうなったに過ぎない。
そしてそんな連中に限って驚くほど生に執着する。どんな人間の命も地球より重いとか言い出す。いやいやいや、地球より大切な人なんて80億人の中に数人いればよい方だろう。例えばその人が地球温暖化を防ぐ研究を完成させる人なら、その人の価値は地球より重いと言える。獣や虫や植物であっても、彼らに手を挙げる知恵があるとすればそれには賛成するだろう。それ以外の人は別に死んでもかまわないと彼らは思うだろう。私も同意見だ。地球を救う知恵を出せるのでない限り、自分の命も重要とは思わない。
厳密な順位付けなど今の文明レベルではできないが、自分の周りの数十人数百人を幸福にする人間の命は、周りの人を不幸にする人間の命よりも大切だ。どちらかが死ななくてはならないとしたら、後者を選ぶ。前者を選んだらたくさんの人が不幸になる。その選択はしごく当たり前の話で、ケーキを2等分するにはどうすればよいかと同じくらい自明の話だ。なぜこの当たり前の話をごまかして、人間ひとりの命が地球より重いとか論理が不明のたわごとを言い出すのか。
人間の重要性が定義できないとかの議論を振りかざす愚か者も出てきそうだが、定義できないのは今の文明レベルがそこに到達していないからだ。そもそも定義を目指すこと自体が間違っている考え方だ。定義するのは異なる事象を同一視するための方便だ。法律も異なる事象を同一視するためのものだ。しかし本来は異なる事象は、ケースバイケースで判定しなければならない。ケースバイケースの判定ができるほど人類が高度な文明に到達できるのは1000年くらい先だろうか。判定はこれまで存在した人類全員の英知を全投入して行われる。最も感情的な判定であり、最も論理的な判定でもあり、そのふたつが完全に一致する。幼稚な考えで当たり前のことを否定するのは愚かだ。
せっかく複雑な脳を授かったのだから、自分だけ良ければよいの考えを止めて、周りもふくめてよいを行動の指針にしなくてならない。自分を含めた周りのために生きれば、人類文明を高度にするために寄与できる。

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