2022年12月6日火曜日

考えることをさぼるから認知症になる

日本人は認知症がやたら多い。おかげで介護する人まで疲弊して国の活力がそがれている。認知症は若いころから考えることをさぼっていると発症しやすい。思考停止は楽だから、それで生きられると分かれば、よほど目的意識のある人でない限り思考停止して考えなくなる。
先の未来予想で述べたように、日本では稲作が始まってからは狩猟採集時代よりは食料の心配をしなくてよくなり、考えることが減った。大陸であれば、食料の心配がなくなっても敵が攻めてくる心配があるので考えることをさぼったらそれは死につながる。島国の日本は敵が攻めてくる心配が少なかったので、考えなくて良かった。今となってはそれは良いことではなかったと気付く。

思考停止の典型的な症状は高齢者によく見られる。「何々をしなくてはならない」「何々をしてはいけない」という考えが間違っていても彼らは決してまげようとしない。最新の科学を学んでいれば、昔はこうだったが今は違うということが分かるはずだが彼らは学ばない。考えないのは楽だからこうなる。楽だからと言って他人に迷惑を及ぼす輩を年齢のせいだからと許してよいはずがない。
若い人も注意しなくてはならない。「何々をしなくてはならない」と忙しくして、それをしている間は考えない状態に陥ってはいけない。彼らもよくよく考えたらそれはしなくてよいことだとか、それをしては却ってものごとがうまく運ばなくなるとか分かるはずだが、考えないのでそれに気付かない。彼らは無駄なことを延々繰り返して、そのために考える時間や活力がどんどん失われていく。ここで負のスパイラルが生じる。彼らが一度負のスパイラルに落ち込むと、よほどの覚悟がないとこの負のスパイラルからは抜け出せない。
日本人全体としては2000年以上前から負のスパイラルに陥っているので、これを抜け出すのは容易ではない。抜け出すいちばん容易な道は教育を改善して子供のころから考える習慣を身につけさせることだ。覚えることではなく考えることを学ぶ。しかし、教師の方も考えることを放棄している人間なのだから、この道がいちばん容易とは言え、相当に難しい。お金も手間もかかるだろう。

認知症が年齢のせいと言って考えることを放棄している連中がいるが、それは甘えの言い訳に過ぎない。医学・生理学的な知見でそれを論破しておこう。
脳の中にはシナプスがある。シナプスはニューロンの間をつなげる働きを持つ器官だ。シナプスは100兆個~1000兆個あって、それぞれが接続強度を持っている。接続強度が大きいとニューロン間の情報がよく伝わる。シナプスの接続強度は人間が生まれてから死ぬまで変わり続ける。
この変わり方は1949年にHebb博士が提唱したHebb則によって変わることが20世紀末に明らかになった。Hebb則は、つながった二つのニューロンが順番に発火(活動)するとその間のシナプス接続強度が強まり、順番に発火する状況が発生しないとその間のシナプス接続強度が弱まると表現できる。スパイクタイミング依存可塑性と呼ばれる。

Hebb則によると脳を使わないでニューロンが発火しないと、シナプスの接続強度はどんどん弱くなる。やがて接続強度がゼロになると、そのシナプスは存在しないのと同じになってしまう。接続強度ゼロのシナプスでは情報を伝えられないから、脳の情報伝達は衰える。使われないシナプスやニューロンは死滅するとも言われている。こうやってシナプスがどんどん弱っていくと認知症と呼ばれる状況になる。考えることをさぼる、つまり精神的な堕落が認知症の原因だと私が主張するのはこのためだ。

正確なところも言っておかなくてはならない。認知症でも血管性のものはこの主張には当てはまらない。血管性の認知症は一種のケガであり、本人の精神的堕落のせいではない。また、身体の他の細胞と同じでニューロンやシナプスは年齢とともに劣化して死滅する。これによる脳の劣化も本人の精神的堕落とは関係ない。しかし、年齢による劣化よりも精神的堕落による劣化の方が割合が大きい。そうでなければ90歳を過ぎても論理的な思考ができる人が存在することを説明できない。年齢による劣化が主であるなら90歳になった人は全員認知症になるはずだ。実際はそうなってはいない。年齢による劣化が主原因だと主張する人は、考えることをさぼっていることを認めたくないみじめな連中だ。
身体の運動を怠っていれば、肥満したり筋肉が衰えたりして健康を損なうのは当たり前だと思うだろう。それと同じで脳の運動である考えることを怠っていれば、脳の健康を損なうのは当たり前だ。
血管性の認知症は本人の責任はないと言ったが、これも正確ではなく血管性の病気の一部は本人の生活習慣と関係がある。だから血管性の認知症だから本人には全く責任がないと言い切るのは実は間違いである。

若い時に考えないでさぼっていて、年をとったときに認知症になっても、本人がそれで食べ物を取れなくなって勝手に死んでくれるのなら問題ではない。自然界の生き物はそうなっている。ところが日本では認知症の人を無理に生かすために、若い人や子供を犠牲にすることが当たり前のように行われている。これでは亡国まっしぐらだ。アリとキリギリスの寓話を知らないのか。若いときにさぼった人は後で苦労するのは当たり前で、それをアリが犠牲になってまで助ける必要があるのか。
人間は考えるから人間たりうるのであって、考えることを自ら放棄した個体はもはや人間とは言えない。それらを大事にする輩がいるの勝手だが、子供や若者を犠牲にしてまでそれらを大事にすべきという輩とは私は徹底的に戦う。子供や若者の方がはるかに大事だ。子供を大事にしないと種が滅びるのはどの生き物も共通だ。わざわざ自らの種を滅ぼそうとするとはいったい何を考えているのか。自殺したいなら自分たちだけで勝手にやってくれ。他の個体、特に子供を巻き込むな。日本の老人は、自分が死ぬなら子供たちも道づれにすべきだと思っている風にしか見えない。言語道断。そんな老人は駆除した方がいい。

--付録--
脳を使ってニューロンがどんどん発火すると、Hebb則によりシナプスの接続強度が強まり脳内の情報の伝わりやすさがどんどん良くなる。つまり脳を使えば使うほど頭が良くなると考えてよい。全てのシナプスの接続強度が強くなれば良いかというとそうではない。重要なシナプスは強くなるべきだが、どうでもよいシナプスは弱くなる方が良い。イメージで言うと重要な刺激には反応するが、重要でない刺激は無視するようになった方が脳は効率的に働く。どのシナプスが強化されてどのシナプスが弱化されるかは、生まれたときにどのようなシナプス結合を持っていたかと、人生の中でどんな刺激を外部から受け取ってシナプスの接続強度が変わったかによって変わる。だから考え方が違う人が出てくる。これを個性と呼ぶ。個性を無視してみんなが同じように頭が良くなることはできない。周りと本人の努力である程度の底上げはできるが、全員が天才になることはできない。

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