憂国の士の意味は実用日本語表現辞典では以下の通りだ。
「国の将来について心配し、自らの時間や財産などを犠牲にして国を立て直すための活動や行動を起こす人。特に、政府側ではない一般的な民衆の立場でそうした行動を取る人のこと。志士、志士仁人。」
最近この憂国の士を見ない。かつて私は憂国の士であった。大人になったら革命で命を落とすだろうと思っていたが、革命をする気がなくなった。なぜって、日本人は救うほどの価値がないと分かったからだ。侍が貧しい村人を助けた後、村人に騙されて殺されるみたいなことはまっぴらごめんだ。村人を助けるときは、その村人が助けるに値する人間かどうかを吟味するのが先だと分かった。そして人間を吟味することはひどく難しいが、長いこと必死の努力を続ければそれもできるようになると分かった。他の憂国の士になり得る人も私と同じ考えに至ったのだと思う。日本人は救うに値するのか。もちろん値する人はいる。その人が窮地に陥れば助けるべきだ。しかし、全員を助けるべきではない。クズが混じっているからだ。助けるとき間違った判断をしないために、クズを見分ける眼力を身に着けることが最優先だ。で、実際身に着けてみたら、驚くことに日本人はクズが多数派だった。これはもうあまりに驚いた想定外の事実だった。多数はまともでクズは少数と信じていたのだが、逆だった。これでは安易に革命など起こせない。クズを助けようとしたあげくの果てに後悔するのは愚かだ。
日本国内に何百人といるまともな有識者(まともでない有識者はその何百倍もいる)は、日本のためにいろいろ良い提言をしてくれている。その提言通りにすれば幸せになる人が増えるだろうにと思う。しかし、彼ら有識者の態度を見ると熱意を感じない。醒めている。「これを実現しなければ私の存在価値がない、私は命をかけてこれを実現する」なんて意気込みがない。彼らは頭が良くて良識もある。だから良心のもとに助言はする。しかし、クズのために自分の命を賭けたりはしない。それは正しい。下手に命を賭けてもらって彼らが死んだりしたら人類の損失だ。それでクズが何千万人助かろうが何の慰めにもならない。そもそもクズを助けると、そのクズがおかす悪事のために良識ある人が迷惑したりひどい場合は殺されたりするのだから、クズを助けること自体が悪事ですらある。
かつて憂国の士だった私が今でも唯一やりたいことは教育改革だ。子供が十分な教育を受けることができれば、彼らはきちんと考えることができるようになり、大人になってクズになりにくくなる。そうなれば、助けるべき日本人が増えて、醒めていた有識者も憂国の士として復活してくれるかもしれない。
しかし、今のクズは子供の教育より高齢者を優先せよと叫ぶ。しかもクズの方が多数派で、選挙はクズも利口も一人一票。これはかなり厳しい状態だ。詰んでいるとも言える。詰みの後にいくら駒を動かしても無駄だ。将棋のルールを変えない限り。
日本人に限定して話をしたが、これは他の国でも当てはまる。国籍で人を十把一絡げに扱ってはいけない。中国人や朝鮮人でもまともな人はいる。教育水準の高いフィンランドでもクズはいる。ひとりひとりを良く見て話して、その人に対してどう対するかを考える必要がある。それが難しいから、思考停止して「ロシア人はどう」「高齢者はどう」「日本の政治家はどう」とか言う連中が多いが、思考停止したらクズの仲間入りだ。手間に対する効果を考えたらロシア人と高齢者と日本の政治家を全部消すのはなかなか魅力的な案なのだが、その中には数は少ないがまともな人が混じっているので、もし実行するときはまともな人を除外することに注力しなければならない。どんなに難しくても人間はきちんと正しく区別すべきだ。
人は平等という言葉が全ての不幸の元凶だ。ひとりひとりが違うのだから区別するのは当たり前、自然の摂理だ。自然の摂理に反すれば無理が生じるのは自明だろう。平等という言葉はきちんと区別するという難問に挑戦するのをあきらめて思考停止した輩の言い訳に過ぎない。辞書から削除してほしい言葉だ。家畜の牛や豚より価値のない人間はたくさんいる。それをきちんと区別しないと、死んで私たちの食料になってくれている家畜に申し訳が立たない。これはキリスト教が悪い。家畜を殺す言い訳のために人間と動物を区別した。そのため、人間はどんなクズでも家畜より尊いとなってしまった。犬猫より劣った人間はそこらにたくさんいるのが分からないのか。
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