2022年8月29日月曜日

バカは通説が間違っている可能性に思い至らない

私の職場は研究所なのでバカでは務まらない。バカがほとんどいないので、バカに仕事を妨害されることは極めて少なく快適に過ごせる。私に反論する人がいないという意味ではない。反論する人は論理的に反論するという意味だ。バカでない人との議論は互いに役に立つ。職場以外の社会もバカ以外で構成されていたらどんなに幸せかと夢見る。それは仏教でいうところの涅槃であろう。

話が脱線した。バカの話だった。バカの定義は「バカだからバカ」なのだが、具体的に言うと「今自分が信じていることが、間違っている可能性に気付けないのがバカ」だ。教科書丸暗記がバカを産むのは分かりやすい例だろう。誰かに言われたことを後生大事に信じているのはバカの典型だ。天動説を大多数の人が信じていた時代に、地動説を聞いて「なるほどその方が事実に合う」と思えた人は利口でそれ以外はバカだ。バカでない人は、通説の物理法則すらももしかしたら間違っている可能性があると考えている。天文の観測結果からはダークエネルギーがあると考えるのが自然だが、ダークエネルギー以外の理由で宇宙の膨張が速くなっている可能性を残すのがバカでない人だ。また人間を殺してはいけないという説も間違っているのではないかと考えるのもバカでない人だ。

年をとると既存の概念に凝り固まる人間が多く、そのため多くの場合老人はバカなふるまいをする。それでも、90歳になってもこれまでの考え方がおかしいことに気付き、新たな考え方を取り入れることができる人もいる。年をとったからバカのままでよいと甘えてよいわけではない。

涅槃も涅槃で万能ではなく、涅槃を目指して修行した結果、覚(悟)ってもそこが終着点でないと分かる人もいる。例えば、覚った釈迦が暮らしている場所に露助が攻め込んできたとする。釈迦はそのまま涅槃で生きられるだろうか。目の前で無辜の人が殺されるのを見て釈迦は何ができるだろうか。露助の前では覚りが役に立たないことを知って、覚りは修行の最終段階ではないと釈迦は気付くはずだ。中央アジア、満州、北方領土、そして現在のウクライナの人々は露助が攻め込んできたときの経験を持っているから、生き残った人は私の言うことが理解できるだろう。

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