2021年2月16日火曜日

時給100円での氷点下労働

麻酔なしで手術ができる私の身体が、生まれついての特殊能力だと思われるのは心外だ。これは努力(そのときはそんなつもりは実はなかったが)の末に身に付いた忍耐の力だ。痛みを感じないのではない。私だって擦りむいただけで痛いし、釘を踏み抜いたときは死ぬほど痛かった。でも、腕や脚がちぎれたとしてもその痛みを我慢できるだけだ。それは子供の頃の労働で身に付いた。時給100円で6年間働いた。朝夕の新聞配達だ。雨の日はまだましで、冬がひどかった。氷点下で寒風が吹きすさぶ。防寒着はなく、手は軍手だけ。氷点下の日が続くと指が動かなくなった。太く腫れる。最初は痛かったが、そのうち何も感じなくなった。しかし新聞をつかめるくらいには指は動いた。鉛筆は握れなかったので学校では困ったが、私は頭が良かったのでノートはとらなくても問題なかった。指を親に見つかって医者に連れていかれたら、凍傷と分かった。凍傷と分かったが、配達をやめたのではなく、自転車のハンドルの持ち手に布と化繊でできたカバー(最近見かけないがまだあるのだろうか。当時1200円)を付けて解決した。これは私が言い出したアイディア。カバーが風を防いでくれたら冷たくなくなるだろうと予想した。これは正解で、凍傷はしばらくしたら治っていった。氷点下5度から10度の中で働いていて、シベリアに抑留された日本兵はこれより酷い環境で働かされていたんだなあ、しかもろくに食事も与えられずにと実感できた。普通は死ぬだろうなと思った。シベリアでは85万人が亡くなった。私の労働は1日3時間だけだったし、普通に食事をしていたから死ぬような心配はなかった。しかし忍耐力が身に付いたのは間違いない。なぜ新聞配達を始めたかは自分でもよく分からない。うちは貧乏でもなんでもなくて、お金は必要なかった。小学校を卒業してすぐ、天啓があった。天啓は「汝働くべし」みたいな感じだった。学校帰りに配達店のじいさんに声を掛けたらそのまま採用された。今だと朝の3時から働かせるのは児童何とか法違反だと思うし、凍傷になるまで働かせるとか新聞沙汰になりそうな感じだけど、配達店のじいさんも親も私が凍傷になってもあわてなかった。私もひどく苦しいとか辛いとか思わなかった。雪や風をうらんでもしかたがない。それはただそこにあるだけだ。指の痛みも同じ。それはそこにあるだけ。全てを自然に受け入れていた。私の修行はこのときから始まっていた気がする。全てを受け入れれば病気も死もなんてことはないのだけど、大人になってちょっと待てと思うようになった。ソ連共産党や中国共産党もあるがままに受け入れて良いのか。それは違うだろう。悪は倒さなければならない。小物だけど田中角栄とか二階もそう。釈迦は、覚って涅槃に至れば共産党だってあるがままに受け入れて平穏でいられるからあなたも覚りなさいと言う。いやいやいや、それは違う。私が涅槃に行ったとき、釈迦とひざ突き合わせて話したい。スターリンに粛清された大人はそれでいいかもしれない。覚れば死の間際でも平穏でいられただろう。しかし、毛沢東のでたらめで餓死した農村の赤ん坊はどうなのか。赤ん坊は死ぬとき苦しまなかったのか。覚ってないから赤ん坊は苦しむのが当然なのか。なに、赤ん坊は来世で極楽浄土に行けるだと。そんなわけあるかい。おまえさんは来世に行ったことも見たこともないだろ。来世があるなんて道理に合わない方便で不幸な人の運命をごまかすんじゃねえ。てやんでい、べらぼうめい。と遠山の金さん風に小一時間問い詰めたい。

シベリア収容所で殺された人、アウシュビッツ収容所で殺された人なら、手足の1,2本くらいはくれてやるからここから出してくれと言うだろう。彼らの経験に比べれば、仏教の高僧の行う荒行なんて児戯に等しい。2,3か月無茶なことをするだけ。手足を切り落とす訳でもない。へそで茶が沸くぜってな感じだ。修行の結果は自分が覚るだけってのも情けない。現在でもアフリカ、南アジア、中央アジア、中東、南アメリカの一部で長いことひどい目にあっている人がいる。寒くはないがシベリア収容所並みだ。変な荒行をするよりかは、そんな人の助けになることをした方がよい。

自己の覚りより他者救済を優先せよというのは正論だが、それが過ぎるとキリスト教徒みたいになる。神父も司祭も修行なんて全然しない。苦労してないので大して知性が身についてない。知性がない奴の教えを実行すると、キリストの教えと真逆のことをやらかして社会がめちゃくちゃになる。魔女狩りを始めたり、免罪符売って金儲けをしたり、異教徒を殺したり、ひどい所業ばかりだ。キリスト教徒には知性を授けないといけない。知性のないバカ教徒は全員火星か月に送って隔離した方が地球のためな感じだ。そういう意味では、自分しか救わないが仏教の高僧が荒行して覚りを目指すってのはかなりマシだ。少なくとも誰にも迷惑はかけてない。へそで茶が沸くのは変わりないが、修行をしようとする人を止めはしない。

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