2020年12月3日木曜日

巨人の肩の上に立つのがどんどん難しくなっている

 google scholarを使うと最初のページに「巨人の肩の上に立つ」と表示される。この言葉はアイザック・ニュートンのものだと誤解されているが、実は12世紀のシャルトル学派の総帥ベルナールの言葉だ。実はニュートンは引用しただけだ。

この言葉は、先人たちの業績や先行研究などを巨人に喩えて、新しい研究がそれらの積み重ねの上に構築されることを意味している。研究者ならそんなことは当たり前だと思うだろうし、事実私もそう信じていた。ところが、1990年代以降インターネットの発展で情報の取得が紙に頼らなくなってから、巨人の肩の上に立つのがどんどん難しくなっていると感じている。そして困っている。私は年に平均して論文や本を200著読んでいる。十分多いとは言えないが、まあ研究者としては普通の数だろう。論文を読み始めた1980年代は、ためになる論文が結構あった。ためになるというのは個人によって違うだろうが、私にとっては「著者の知性のきらめきが感じられて、脳がドーパミンを出して幸せな気分になる」ということだ。ところが、最近出版された論文はためになるものが少ない。いろんな著者がいるので玉石混淆になるのは仕方がないのは分かるが、玉の割合がすごく減っている。そうは言っても読まない訳にはいかないし、出版される論文はなぜだか分からないが年々増えているので、石(つまりクズ)論文を読まされる回数が増える一方だ。苦労して読み終えて得るものがなかったと落胆するのは苦痛だ。時間の無駄でもある。

この苦痛が私だけのものなら私が愚痴を言えば済むだけのことだが、そうではないと思う。これから研究を始める20歳の若者は私より苦労するのではないか。私の研究分野では一番古い論文は1950年で、それから2020年までの70年間分の論文を40年かけて読むことができた。これは不可能ではないし、その気になればたいていの人はできると思う。しかし、同じ研究分野をこれから新しく始めようとする20歳の若者は70年間分の論文をすみやかに読んで、その上で新しい自分なりのアイディアを付加しなければ研究にならない。もちろん70年間分の論文を全部読む必要はなく、重要な(それは被引用数でだいたい近似できる)ものだけ読めばよいのだが、それでも大変な作業だ。2100年に20歳の若者はさらに大変で150年間分の論文を読まなければならない。それが嫌なら研究なんてするなと言われそうだが、何か効率的にする工夫が生まれないと、未来はきっと困ったことになると思う。

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