2026年5月19日火曜日

普段うしろめたいことをしている人ほど信心深い

私は深く宗教に関わっているが、儀礼的なことはしない。信仰の本質を追求しているからだ。

私の観測では、神社仏閣で熱心に手を合わせる人は、普段うしろめたいことをしている人が多い。罪悪感の強い人ほど、赦しや救済を求めて信仰に向かう。親鸞の悪人正機説はまさにこの構造を逆手に取ったもので、自らの悪を深く自覚した者こそが他力本願の正客とされる。これは情けないが、まあ仕方ないと思える。

もうひとつの観測の方が問題である。仏壇に熱心に手を合わせる人ほど、亡くなった人の生前に何もしていなかったように見える。それで学習して、今生きている人に愛を注げばよいものを、相変わらず生者には何もしない。仏壇に手を合わせているのは亡くなった人をしのんでいるのではなくて、単に自分を救済してほしいだけのように思える。これでは宗教が気の毒になる。仏壇に手を合わせる行為は、本来は故人への思慕や、生死を貫く何かへの向き合いであるはずなのに、実態としては自己救済の道具に成り下がっている。親鸞も道元も、宗教のこんな使われ方は望まなかったはずだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿