2020年2月13日木曜日

国王が国民の幸せを願うのは渇愛か

例えば、国王が国民が飢えているのを憂いてなんとか食料を工面しようとするのはどうなのだろうか。これも渇愛か。国民を保護して結果として自分の地位が安定するので欲なのだろうか。単に憂いて何の報酬を受けることも考えず、行動を起こしているだけなら渇愛ではないのか。
仏陀が悟りを開いた後、最初は悟りの内容を他人に伝えようとは思わなかったと聞く。後で他人に乞われて悟りとはどういうものかを話した。他人のために骨をおることは渇愛には含まれないようだ。先の国王の例でも、国民を救いたいという思いだけなら渇愛には含まれないと考える。ならば、他人のために丈夫な家屋を作りたいと研究するのは渇愛(欲)ではないと考えてよいだろう。研究者であるということと、悟りを開くということは両立できると判断する。
ただし、些細な事柄についてのどうでも良い論文を発表するというのはなくなってしまう。それは論文数を増やして自己顕示欲を満たすためだけのものだからだ。他人に役立つ本当に質の良い論文しか発表しなくなる。それは研究者として、人として望ましいことだ。問題ない。研究者は修行を続けて悟りを目指して良いのだ。
悟りを開くと世俗では居られなくなる(出家しないではおれない)と聞く。それが本当かどうかは悟りを開ければ自ずと分かることだろう。

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