2020年2月12日水曜日

悟りを開くべきか否か

調べると悟りには4段階あるとか52段階あるとか、後付けの胡散臭い理論もあるようなのだが、仏陀がそんなことを言ったとは思えず、悟りはひとつだとして話を進める。
修行の末、あと一歩で悟りに到達するように思えるのだが、このまま悟りを開いても良いものかどうか考えている。悟りを開くと渇愛から解放されるのだが、それで本当に良いのか悩む。私は研究者なので、もっとたくさん、もっと大きく、もっと速く、もっと簡単に、もっと小さくなど、もっと~したいという考えの基、研究に取り組んでいる。まあ研究者はそれが普通だ。ところがもっと~したいというのは渇愛ではないかと思える。悟りを開いて渇愛から解放されると、今のあるがままを受け入れてそれで良いと思うようになる。つまりもっと~したいと思わなくなる。欲が無くなる。そして悩むことも苦しむこともなくなる。人としてはそれで幸せなのだろうが、研究のモチベーションがなくなってしまう。幸せになれるのだったら研究なんてしなくて良いだろうと思うかもしれないが、それが違うのだ。
地震が起きて家屋が倒壊して人が死んでしまう。すると建築の研究者(技術者でも良い)は、次はもっと丈夫な家屋を作ろうと思う。しかし、材料には限りがあるし、コストにも制約がある。制約の元、丈夫な家屋を作ろうとすると、色々な問題が生じる。それを乗り越えるのは苦しい。しかしやりたい。もっと丈夫な家屋を作りたいというのは渇愛だと思う。その渇愛があるから苦しい。もし、悟りを開いてその渇愛から解放されてしまうと、いまのあるがままで良いと思ってもう丈夫な家を作ろうと思わなくなってしまう。そしてこれまでと同じ家屋を建てる。そして次の地震が来るとまた家屋が倒壊して人が死ぬ。これで良いのか?津波や洪水に備えるもっと高い堤防を作る場合も同じことが言える。渇愛は本当になくなってしまっても良いのか。
次回に続く。

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