かつては教育制度が未発達であったため、年長者ほど知恵に富んでいました。そのような年長者の意見を生かすことで、集団全体の生存可能性が高まりました。また、医療が発達していなかった時代には、年長者の数は極めて少なかったため、希少な年長者を失うことは集団にとって大きな損失であり、儒教の教えは合理性を有していました。しかし、近代以降は状況が一変しました。年長者であっても、必ずしも知恵に富んでいるわけではなく、年長者の数も増加しました。このような状況下では、儒教の教えのうち「年長者を敬う」部分は、もはや意味を失い、有害な側面すら持ち合わせています。
中国の支配者が自らの権力を維持するために儒教思想を利用したことも知られています。支配者は通常年長者ですが、儒教を利用して国民に無条件の尊崇を強制しました。支配者を批判する者は儒教に反する者として悪者扱いされました。これは、共産主義ソ連がスターリンを批判する者を人民のための共産主義に反対する者として悪者扱いしたのと類似しています。中世のキリスト教が教会の権力を維持するために神を利用したのも、同様の手法と言えるでしょう。
儒教も共産主義も、一見すると善であるように見え、大衆に受け入れられやすいという特徴があります。これは、近年世界中で流行しているポピュリズムと共通しています。ホモサピエンスの中でも、大衆はサルほどにも思考しません。思考しないからこそ大衆であり、思考する者は大衆ではありません。サル以下の知能しか持たない大衆を操作するために、儒教や共産主義、キリスト教が利用されたと考えられます。これは、過去の支配者がサル以上の知恵を持っていたことを示唆しているのかもしれません。
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