2021年2月11日木曜日

覚りに近づくと無理に善人を救う意欲が薄れる

気のよい人はたまに居る。いわゆる善人だ。他人に気を配り、自分を含めみんなが得になるように努力する。みんなが得になるにはどうすれば良いかを正しく判断できる高い知性も持っている。そんな人は決して多くはないが、実際にいる。全人口80億人のうち何万人かは善人だと私は信じている。若い頃はほとんどの人が善人だと信じていたが、知性のない善意は他者を傷つけることが分かってしまい、本当の善人はたくさんはいないことに気付いてしまった。善人は幸せになってほしいし、善人を攻撃する他のクズ人間には私が身をもって対峙しようと思って生きてきた。そのためけっこう無理をして自分の寿命を縮めてきた。そこそこ長く生きたので、いますぐ死んでも悔いはないが、今後はそんなに無理しなくていいかと思えるようになってきた。私が守ろうとしている善人は、そんなに弱くはないかもしれないからだ。善人である以上私と同じか私以上の知性は当然持っているはずだし、自分を守るすべだって人並には持っている。心配なのは他の善人を救おうとして、自らを犠牲にしてしまうことなのだが、それはまあ仕方ないし、悪いことではない。間違って他のクズ人間を救って自分が犠牲になるようなヘマはしてほしくないが、年をとって人を見る目が養われたらそれもしなくなるだろう。そうだとすれば、私が気を張って頑張ってきたことは大して役には立ってなかったかもしれない。もう少し平穏に生きても大丈夫なのかも。ただ、心配事は残っていて、赤ん坊や子供は自分で自分を守れるような気がしないから、助けたいと思ってしまう。赤ん坊や子供の未来を閉ざしてしまう地球温暖化推進派の連中は機会があれば殺してしまいたい。そんなことをしてくれる新ウイルスが出てくると喜ばしい。

釈迦やイエスはどう思っているのか、機会があったら聞いてみたい。釈迦って意外と他人には興味がなく、覚りのことも自称弟子にしつこく聞かれたからしぶしぶ答えたってくらいなので「どうでもいいんじゃない」とか答えそうな気がする。えー、それでいいのかなあ。

0 件のコメント:

コメントを投稿